しあわせのねだん

しあわせのねだん

p188-189
二十代のとき使ったお金がその人の一部を作るのではないか、ということである。
十代のころのお金というのは、多くの場合自分のものではない。親が与えてくれたなかでやりくりしている。二十代のお金は、例外もあるがほとんどは自分で作った、自分のお金である。なくなろうが、あまろうが、他の責任ではなく、ぜんぶ自分自身のこと。それをどう使ったかということは、その後のその人の、基礎みたいになる。もちろん基礎のすべてではない、一部ではあるが。

二十代すべて、私と正反対に、装飾系にお金を使った人がいるとする。その人は確実に、私よりも装飾選びがうまいはずである。二十代のお金がその人の基礎になるというのはそういうことで、映画を見まくった人は他の人より絶対映画にくわしいし、おいしいものを食べまくった人は、絶対に舌に自信があるはずだ。自分の作ったお金を使っているのだから、その対価物が身につかないはずがない。お金というのはそうしたものだと私は思う。

p191
三十代で使ったお金というのも、きっとこの先、なんらかの意味を持つのだろうと思う。
二十代を貯金に費やせば、それだけのことはある、というか、それだけのことしかない。数字は積み上がるが、内面に積み上がるものは何もない。